釧路 野地の石仏

大正時代に建立された「釧路 新西国三十三所観音霊場」をご存知ですか?

「釧路新西国三十三所観音霊場」について

「釧路新西国三十三所観音霊場」について

  地名は北海道釧路市のものです。

 春採湖を散策していると、幾つもの石仏があることが気になっていました。お地蔵様も石仏でありますが春採湖のものはお地蔵様とは言わないそうです。  以下、石仏についてご紹介させていただきます。

 

 釧路叢書に「春採湖」という本があることは知っていましたので、図書館で借りてみました。なるほど、春採湖だけでなく、米町から春採にかけ観世音(観音様)がお祀り されていることがわかりました。

 「春採湖」は、昭和49年の 発行です。それから平成28年の現在まで42年経っています。当時と三十三所の観世音にどんな変化があるのか、あったのか興味がありましたので、何日かかけて、回ってみました。

  その後、平成16年に書かれた「釧路 新西国三十三ヶ所霊場巡り」(道東歴史散策隊編)の存在を知り、図書館で閲覧させていただきました。きれいな写真入りの資料でとても参考になりました。 

 また、この資料で、平成7年発行の釧路新書「釧路碑文手帳Ⅰ」にもこの西国三十三所霊場信仰についての記述があることを知り、書店で購入できましたので読んでみました。

  あわせて、この本で「釧路郷土史考」(昭和11年)にも記述があることを知り、ネットで調べると国会図書館のサービスによりネット上で画像にて紹介されていましたので読ませていただきました。

 それぞれに貴重な資料でこうしたものが公開されていることは本当にすばらしいことだと思います。

 本稿では、平成28年10月に踏査した、釧路 新西国三十三所霊場の場所や探査中に感じたことなどもあわせて紹介させていただこうと思います。読むについては上記、「釧路郷土史考」「春採湖」「釧路碑文手帳Ⅰ」「道東歴史散策隊」の発行年を意識していただけたら幸いです。

 筆者は、仏教の知識を持ち合わせませんし、宗教のことに詳しいわけでもありません。皆様に宗教をお勧めするわけでもありませんので、書いてあることに不都合があればご指摘をいただきたいと思います。

 

 ◎新霊場の建立経緯  

 もともとの「西国三十三所霊場巡り」には諸説あるようですが、8世紀頃、長谷寺の徳道上人が病気で死んだとき、閻魔大王と会い三十三所の霊場巡りを広め悩める衆生を救うよう託宣を受けたことにより、生き返り、霊場を設けたのが始まり、270年後に花山法皇自ら巡礼したことで人々に普及したといわれているようです。

  釧路 新西国三十三所霊場の建立に経緯については、最初の文献、「釧路郷土史考」(昭和11年)に、「新西国三十三番観世音之縁起」として記載されています。

 「春採湖は何の因縁にや年々入水又は溺死するもの多きを悲しみ其が供養を目的をもって建立」しようと真言宗西端寺住職近藤快應が発起し、同寺総代細川杢蔵が責任を持って浄財を集め、大正12年着手、大正13年9月20日に開眼したもの。なお、石仏は三十三所のほかに五体が番外として設置されました。

 「春採湖」には、重たい仏像を馬車や人力で運んだ経過なども記載されており、その設置や三十三所巡りの様子など、当時の様子を知る人への聞き取りも相当に丹念に行って書かれており、当時の様子が偲ばれる貴重な記録となっています。

 

◎山かけ

 この新西国三十三所巡りを「山かけ」といい、「春採湖」によると春5月18日、秋10月17日に行われているといいます。「郷土史考」によると、当時は参拝者が「善男善女六七百乃至壱千除人に及び接待等を捧ぐるもの亦多数あり」と大盛況を博していたようです。

 「春採湖」によると、「戦後年々減少し、今では4,50人が巡拝している。」とあります。

  筆者は、秋の山かけ10月17日には所要でいけませんでしたが、翌日春採湖を巡ってみると観世音の周りの草がきれいに刈られており、後日、紫雲台墓地の方に聞いたところ、山かけは、人数は減ってきているが今も行われているとのことでした。

  大正時代からですので、春採湖の周遊路や紫雲台墓地と沼尻川の間の沢など、けものみちだったところを巡拝して歩くのは、高齢の方には大変な難行であったことでしょう。

 

◎野地の石仏

  ここから、それぞれの霊場に安置されている観世音と台座に刻まれている札所、ご詠歌を記していきます。

 なお、台座に刻まれている札所がご詠歌に読み込まれているのも特徴のひとつになると思います。ご詠歌そのものは、元の西国三十三所霊場巡りと同一になっています。

  また、設置場所が昭和49年の「春採湖」当時などと変わったものも紹介していきます。

  山かけは、米町西端寺にある第一番から始まり同寺にある第三十三番で終わることになりますが、その順路と思われる「春採湖」の記載順にしたがって紹介します。(一部例外あり)

 

釧路新西国三十三所観音霊場その2米町界隈

釧路新西国三十三所観音霊場その2

 

米町界隈

 

1 西端寺境内

 「春採湖」では上記第五番は妙本寺境内、第三十一番は釧路漁業無線局前 青峰観音堂に置かれているとありますが、いずれも西端寺に移設されています。妙本寺が愛国に移転したこと、青峰観音堂の観世音も「春採湖」でみると立派なお堂の中にあったようですが、何らかの事情で移設されたものでしょう。

 なお、第五番のご詠歌は、葛井寺(ふじいでら)と書物にはありますが、ここでは藤井寺となっています。

 ウイキペディアによると葛井寺藤井寺、剛琳寺とも称するとあるのでそのまま台座の記載どおりに掲載しました。また、この観世音のお顔が剥がれ落ちており、像の横に置いてあるようです。「道東歴史散策隊(以下「散策隊」)」による資料にも記載されておりますが、このブログで紹介している写真の中にも修復されている像がたくさんあります。

 西端寺には、移設された石仏もあり、同寺の「春採湖」の写真は、番外の三体を含め五体が一列に並んでいますが、現在は二列になって設置されています。

 なお、第三十三番は、西端寺境内にありますが、「春採湖」の記述に沿って最後に記載します。

 

2 定光寺境内 3 大成寺境内 4 法華寺境内

西端寺もそうでしたが、定光寺の境内にも、多くの像が祀られていました。

 

 この写真を撮ったのは、平成28年10月14日、少し見づらいですが、大成寺の境内では、桜の花が咲いていました。

 

5 厳島神社横道路右斜面  6 本行寺境内

  第二十一番は「春採湖」では、厳島神社横道右斜面と記載されていますが、まさにそのとおりで、厳島神社の石による土留めの角の一部をわざわざ引っ込めて、設置場所を作って祀られており、また、覆堂 (小さな社)が設けられています。

 本行寺境内の第二十五番は「春採湖」の記述では座像とありますが、実物は長等身です。函館の湯川寺ホームページのうち「湯川寺三十三観音の生い立ち」というページを見ると、「二十五番清水寺のご本尊は千手観音座像ですが、湯川寺の石仏は千手観音長等身です。」と当たり前のように書いてあるので、作ったときの事情でこうしたこともあるということなのでしょうか。 

 また、同じく本行寺の第三十二番は長等身とありますが座っています。同じく湯川寺の記載を見ますと第三十二番については「ご本尊は最近造られた白檀の千手観音座像です。湯川寺の石仏は千手観音長等身で旧ご本尊と合っております。」となっていますので、ご本尊の方もなんらかの事情で長等身から座像になったということかと思います。

 

7 聞名寺境内

 「春採湖」によると「本堂から離れた鐘撞堂近くの草むらの中に祭られてる。台座は半分が土に埋まって傾き、石仏の舟型光背は割られて草の中に落ちていた。」とあります。現在は、位置は当時と同じようですが、傾きも無く台座は地上に出ています。

  また、舟形光背の一部が草の中に落ちているのも、当時と同様ですが、「春採湖」の写真では、割れてはいるもののきちんと上に乗せられて撮られています。落ちていたものを筆者がわざわざ上に乗せて撮影したのでしょうか。  

 

 

釧路新西国三十三所観音霊場その3春採湖界隈

釧路新西国三十三所観音霊場その3

春採湖界隈

 

8 春採湖周辺、東家総本店竹老園庭園内

 竹老園には、三体の石仏が祭られています。「春採湖」によると、第二番はもともとは千代の浦海岸付近にあったものが、車にはねられ割れたので、竹老園の当主が修理をして移設したものとされています。

  「春採湖」の本文側には「長身像」とされていますが、一覧表側では「長等身」とあるので、ここでは「長等身」と表記しました。

 また、「春採湖」によると、第四番については、旧柏木小学校近くにあったが、学校敷地になり、またこの石仏も割られたので修理をして竹老園庭の石山の上に祭られたとされています。 

   第3番は、竹老園にある六角堂のなかに安置されています。この六角堂は、「碑文手帳」によると、この地に伊藤竹次郎翁が隠居所を構えその敷地に3番札所が取り込まれ、さらにはこの地に竹老園を開業、つぎの徳治翁が三番札所を手厚く守り六角堂を建立し仏像を納めた、とあります。 

 

9 春採湖周辺、春採湖畔道路千歳町崖中腹

   春採湖畔の千歳町側崖下に第十五番と第十七番が並んでいます。崖崩れの危険があるのか、単管で人が近づかないようにしてある場所です。両方の台座とも一目見て新しいものだということがわかります。「春採湖」を紐解いてみます。

 まずは第十五番。「春採湖」によると「科学館下の湖の突き出た崖の突端の人のあまり通らないところの岩石をくりぬいて祀られていたが、今回の調査ではこの石仏は見えなかった」、「数年前に落とされ、湖水に沈み、このためいずれかの弘法大師を移して祀ったがこれも湖に落とされた、信者が引き上げ安置しなおしたが再び湖に落とされた」とあります。また「碑文手帳」には、現在の位置にあるものの、「第十五番は、初め供養橋付近にあったのをここに移動してきたらしい。」とされています。

  次は第十七番です。「春採湖」によるとこの石仏は、「供養橋付近」にあるようだとされています。「残る1体は、自然の石を石仏として祭っているようであるが、いずれにしても観世音として巡拝している。もちろん札所も施主も不明であり、いつ頃からこのようになったのか知る由もないが、この三十三所霊場の残りは第十七番であるのでこの石仏であると判定したのである。」とされており、霊場の一覧表には「石を持って石仏とする」と記されています。

  なお、この石は今回の調査でもたぶんこの石だろうというものが供養橋付近に残っていました。
 「春採湖」は詳細な聞き取りを行って書かれていますが、この石も第十七番として「巡拝」されていたと記述されています。

 

10 春採湖周辺、友愛の並木道、市立病院下 

  第十五・十七番の先の 車止めのところから友愛の並木道に入ってすぐのところに第二十八番ともう1体が並んでい祀られています。

 この第二十八番は「春採湖」では、供養橋付近にあり当時は「台座がないので札所と施主が不明であり、又石仏は舟形光背が壊れていたが、種々調査の結果第二十八番と判明したもの」とされています。

 現在は、台座が修復され、供養橋付近から春採湖畔に移設されてたということになります。「碑文手帳」にも台座の文字が紹介されており、また、移設後の春採湖の位置で記載されています。

 第二十八番のとなりには、光背に火炎が施され、裏側に大正13年の銘が入った石仏がおかれています。観世音には見えないのですが、三十三所建立当時のものということになります。(この石仏に写真は、このブログの最初のページに掲載してあります。)

  第二十八番から少し行くと、同じく友愛の並木道に第二十九番があります。

 第二十九番について「春採湖」では「昭和47年山かけの時には石仏が1体祭られていたという。」しかし「今回の調査には見当たらなかった。」とされています。破損が激しく台座も無いものであったとされています。「碑文手帳」では台座、位置等も第二十八番と同様に紹介されています。

  この第二十九番の隣には、台座が土に埋もれてしまっているが、石仏の古さに比べると比較的新しい第二十九番同様の花立ての台座が置かれた座像の千手観世音(?)が祀られている。

  この項の最初の写真の3枚目の石仏が、友愛の並木道から湖水沿いにネーチャーセンターへ向うと、市立病院から下りてくる舗装道路の下法面下にある第九番です。春先には、この石仏のすぐ横に福寿草が咲くのをご存知の方もいるでしょう。この第九番は、春先からずうっと花に囲まれているようです。

 

 11 春採湖周辺、チャランケチャシ

  チャランケチャシには、5体の観世音が祀られています。 向って右側から掲載していきます。

 第二十二番のご詠歌は、「春採湖」の引用に従いましたが、ネットでご詠歌を検索すると「おしなべて 老いも若きも 総持寺の ほとけの誓い 頼まぬはなし」とするものと半々くらいでした。なお、
本家総持寺では「おいもわかきも」とされていました。この第二十二番は、「春採湖」によると、最初は旧ユースホステル付近にあったが、ユースホステルの建設に伴い「太平洋炭鉱に行く舗装道路の歩道から1mくらいの民家の軒下に移され、絶えまなく通る自動車や人のために、土埃りにまみれていたが、最も人に接する石仏であった。しかし、何んの理由か2,3年前に現在のところに3度移された」と紹介されています。

  第二十番の隣には新西国三十三所ではありませんがが、昭和35年5月6日の銘がある比較的大きな石仏が祀られています。

  第十一番は「准胝観世音」とあり、ご詠歌には醍醐寺の文字は無く、醍醐寺という札所名に「深雪山 上醍醐寺 (准胝堂)」を使って紹介している例もあり、この「准胝堂」がご詠歌のなかに使われております。

  「春採湖」によると、チャランケチャシを調査した昭和48年6月10日には、5体のうち、「1体は4,5メートル離れた草の中に転がされており、2体は倒されていた。そしてこの石仏と台座は、一部が打ち割られ無惨な状態であった。」とされています。掲載されている写真はきちんと建っているので、筆者が起こしたのでしょうか。

  「春採湖」によると、山かけの折、チャランケチャシにはちょうどお昼頃につくようで、ここで、「釧路郷土史考」に記載されている「接待等を捧ぐるもの亦多数ありて」の文言と、また「春採湖」の記述の「ここで信者の方から熱いお茶か飲み物などの接待を受けて昼食を取り、次の霊場に向う」ということであったようです。(接待はここだけとは限らないでしょうが・・・)

 この「次の霊場」が仏心禅寺になります。

 

釧路新西国三十三所観音霊場その4春採界隈

釧路新西国三十三所観音霊場その4

春採界隈

 

12 仏心禅寺境内

 この第二十四番から馬頭観世音堂へ向うことになりますが、この経路については、「春採湖」に記載があります。すなわち、仏心禅寺から馬頭観世音に「向う途中の禅寺裏には、人が歩いて自然にできた道であり、傾斜が強く、老人は若い人に手を引かれ、又這うようにして登って」いったようです。現在は、その道は見つけられませんでした。ただ、禅寺の裏側は急勾配の山になっており、また、高い土留めがあるようなので、現状ではこの「道」を使うのは難しいのではないでしょうか。

 

13 春採馬頭観音堂境内

 春採2丁目にある春採馬頭観音堂境内に5体の石仏が並べられており、そのうちの2体が第十八番、第十九番です。「春採湖」では、「本堂裏の広くないところに」あるとされていますが、現在は本堂前右側に祀られております。「探検隊」の写真をみるとやはり本堂裏にあるようですので、ここ10年くらいの間に移設されたものと推察されます。

 

紫雲台界隈

14 紫雲台墓地入口

 紫雲台墓地の入口に多くの石仏がありますが、そのうち2体が第十四番と第十六番であり、並べて祀られています。

 この2体の像種については「春採湖」の記述に従いましたが、本行寺の第二十五番と第三十二番と同様、両方がそれぞれ反対になっています。本家の西国三十三所では第十四番は座像、第十六番は長等身であるようなので、そちらに従った記述にしたものかもしれません。この2体は、「春採湖」によると、昔の観月園にあったそうで、住宅建設のために紫雲台墓地に移設されたものだということです。

 

15 供養橋付近

  「春採湖」には、「墓地を横切り、海岸近くの墓地に行く旧道路を、供養橋に向って降りると、左斜面に5体の石仏が祭られている。」とされています。「碑文手帳」には、「墓地西地区から沼尻地区へ下ってゆく近道の中ほど細い山道沿いにある。」 とされており、いずれも墓地から降りていくように書かれていたので、実際に行ってみたのですが、その近道は見つかりませんでした。

  供養橋の左岸側(紫雲台墓地側)から上に登っていく道を探してみると、1本だけ畑の様なところへ通じる山道があります。そこに3体の石仏と1個の石がみつかりました。供養橋付近とされていますが、付近というには少し遠い感じがします。これしか目標がなかったということでしょう。3体ですので「春採湖」の5体という表現と矛盾するようですが、今までも述べてきたように、1体は「石をもって石仏とする」とされており現在は千才町崖下にある第十七番と、友愛の並木道に移設されたと思われる第二十八番が供養橋付近にあったということになります。

  この供養橋付近という場所に、5体の石仏を祀るために現地まで運んだということに思いをはせたときに、当時の方々の信仰への思いが伝わってくるような気がします。

 

16 西端寺境内

 供養橋を渡り、米町に戻ってくると、山かけ最後の第三十三番は、第一番とともに西端寺に祀られています。 

 ここで、今まで参考にしていたご詠歌のホームページを見たところ、「春採湖」の記述と全く違うご詠歌が記載されていました。
いろいろ調べてみたところ、複数のページで、第三十三番の谷汲山華厳寺が3つご詠歌をもっていることが判明。この3つのご詠歌を紹介させていただきます。

  また、あるホームページでは括弧書きで表記した「過去現在未来」の記載がありました。意識してみると意味合いがあるのでで併せて紹介させていただきます。

 

◎ 満願のよろこび

  「春採湖」では、三十三所を紹介のあと「満願のよろこび」として、山かけに参加した人たちの交流の様子などを紹介しています。

  釧路新西国三十三所霊場が、大正13年の建立時の苦労と、それ以降この三十三所を守ってきてくださった方々の努力には、心からの敬意を表さずにはいられません。

  厚い信仰心、他者のための祈り、あるいは、心からの願い事・・・、観音様に手を合わせ祈ることで、人々はよろこびをいただいてきたからこそ、野地の石仏は、90年以上も人々に親しまれてきたのだと思います。

 春採湖を散策していると、よく観音様に手を合わせている方々をお見かけします。こうしたお祈りが、多くの苦しむ人たちを救い、また、心を癒すことを願ってやみません。

当時(大正15年)の山かけの様子(新聞)

当時の山かけの様子(新聞)

大正一五年五月一九日付け釧路新聞を紹介します。

 山かけの様子は、本文の中でも「春採湖」から引用させてもらいましたが、大正十五年五月十九日の釧路新聞を釧路中央図書館で見ることができたので、全文を掲載させていただきます。

 大正13年の記事は残念ながらありませんでした。この十五年のものが入手可能な最古のものと思います。

 それにしても、600人であの春採湖や紫雲台墓地の小道を移動し、お参りし、御詠歌を歌い・・・、想像を超えています。

 なお、観音霊場開山式とありますが、これは第三回となっています。大正十三年建立で当時は年一回の山かけであったと思われます。

 文中に出てくる和讃とは「仏様やその教えを伝え導いた師を讃美する詩句であり、また、広く民衆に教えを伝えるため」に作られたもので、これが五七調に謡われ、御詠歌につながったとされているようです。YouTubeでも紹介されています。

新西国三十三ケ所

音霊場開山式

法悦に酔う六百の男女
僅か八時間で一巡する

 

  西国三十三番を模した観音霊場が西端寺の発起で釧路で建立されて釧路審査西国三十三ケ所観音と称えられてから、第3回に當る開山式が昨日午前八時から

 挙行されたが、折からの小雨で多少気勢をそがれた嫌いはあっても遠く音別方面からまづ馳せ参じた信者を加えて六百余名に達する盛会さであった。正八時に西端寺大多賀師の読経で式の幕が切って落とされ続いて寺内の一番観世音の霊場を振り出しに各寺々の前庭に或いは春採湖を挟んで高台・安置された霊場を1ヶ所づつ御詠歌や道中

 和讃を唱え乍ら巡り始めた。参詣者の大部分が既に五十路を過ぎた人々であるだけに或いはかつて失ったつれ合いや子供の事でも思い起こすのであろう、御詠歌が一節終わる毎に人々の目には玉の露が宿っている。総てが法悦に感激して居る連中ばかりなので至って静かなもの、殊に遠く中学校の裏を過ぎて

 春採湖を眼の下に見る所に出ると今迄降りつづいていた雨もはたと止んで、雲の間からあわい日の光さえ洩れて来る。一同の信仰のまととなって居る大多賀師の黒い衣の袖が湖面をふいて来るつめたい風にひらひらとなびいて居るのもあたりが景勝の春採湖であるだけにまったく名人の佛?を見るような感じを與える。うっとりとして御詠歌を唱えていると獨りでに何となく涙がにぢみ出て来る。所々に

 供養の為に接待所が設けられて六百余名に対してお菓子やあめを振舞って居る。やがて休憩所と定められた加賀谷公園では婆さん連中昔を思い出して思いきり声を張り上げて安木節や秋田音頭をうなり出す。山かけを當込みにして来た餅屋さんもついつり込まれてしまい、餅をおっぽり出しておどり出すと言う始末。之も一つの

 法悦であろう。全部の霊場に詣で、西端寺に引揚げたのは午後四時、庭内を一巡し終って納の御詠歌で一同の散会したのは同三十分であったが??ならば家を一歩も踏め出さない連中まで三里に餘る山や谷の遠路をして何のつかれた色もないとは全く信仰の力であろう。

令和3年10月17日 山かけ

令和3年10月17日 山かけ

 令和3年10月17日、春採公園で、釧路新西国三十三所霊場を巡礼している方々に出会いました。念願だったので非常に感激しました。

 三十三所霊場を巡礼することを山かけといいます。

 10月17日は、「山かけ」の日であることを知っておりましたので。私自身、数カ所でも回ってみたいと、10時半ころにネーチャーセンター先の第九番にお参りし、時計と反対周りに春採湖を回っていくことにしました。

 友愛の並木道に差し掛かると、第二十九番をお参りしている白装束の方が目に留まりました。早速、後ろに立たせていただました。鈴(れい)を振り、鈴(りん)をたたきながら、声を合わせて御詠歌を歌いお参りされておられました。

 お参りが終わった後、女性の方に「今日は山かけの日ですね。ご苦労様です。」と声をかけさせていただきました。お話を伺うと、今年の春(5月18日だと思います。)は雨で中止しましたが、今日は何とか天気が持ってくれて実施することができました、との話がありました。

 その上「今日、これからご一緒にいかがですか?」と声をかけてくださったのです。私は所用があり無理だったのですが、私のような門外漢でも誘っていただけるということがとてもうれしく、感激しました。

 春採公園には、散策の途中なのか、公園内等の観世音を拝んでいる多くの方がおります。その方々とも今回のお話を共有したくこのページにこの話を書かせていただいた次第です。

 こうした行事は、末永く続けていただきたいものですし、続けていくべきものと思うのは私だけではないと思います。来年の春には、「山かけ」に参加したいと思う人々が多くなることを祈っています。お声をかけて下さったことは、本当に感激させていただきました。ありがとうございました。