釧路新西国三十三所観音霊場その3
春採湖界隈
8 春採湖周辺、東家総本店竹老園庭園内
竹老園には、三体の石仏が祭られています。「春採湖」によると、第二番はもともとは千代の浦海岸付近にあったものが、車にはねられ割れたので、竹老園の当主が修理をして移設したものとされています。
「春採湖」の本文側には「長身像」とされていますが、一覧表側では「長等身」とあるので、ここでは「長等身」と表記しました。
また、「春採湖」によると、第四番については、旧柏木小学校近くにあったが、学校敷地になり、またこの石仏も割られたので修理をして竹老園庭の石山の上に祭られたとされています。
第3番は、竹老園にある六角堂のなかに安置されています。この六角堂は、「碑文手帳」によると、この地に伊藤竹次郎翁が隠居所を構えその敷地に3番札所が取り込まれ、さらにはこの地に竹老園を開業、つぎの徳治翁が三番札所を手厚く守り六角堂を建立し仏像を納めた、とあります。
9 春採湖周辺、春採湖畔道路千歳町崖中腹
春採湖畔の千歳町側崖下に第十五番と第十七番が並んでいます。崖崩れの危険があるのか、単管で人が近づかないようにしてある場所です。両方の台座とも一目見て新しいものだということがわかります。「春採湖」を紐解いてみます。
まずは第十五番。「春採湖」によると「科学館下の湖の突き出た崖の突端の人のあまり通らないところの岩石をくりぬいて祀られていたが、今回の調査ではこの石仏は見えなかった」、「数年前に落とされ、湖水に沈み、このためいずれかの弘法大師を移して祀ったがこれも湖に落とされた、信者が引き上げ安置しなおしたが再び湖に落とされた」とあります。また「碑文手帳」には、現在の位置にあるものの、「第十五番は、初め供養橋付近にあったのをここに移動してきたらしい。」とされています。
次は第十七番です。「春採湖」によるとこの石仏は、「供養橋付近」にあるようだとされています。「残る1体は、自然の石を石仏として祭っているようであるが、いずれにしても観世音として巡拝している。もちろん札所も施主も不明であり、いつ頃からこのようになったのか知る由もないが、この三十三所霊場の残りは第十七番であるのでこの石仏であると判定したのである。」とされており、霊場の一覧表には「石を持って石仏とする」と記されています。
なお、この石は今回の調査でもたぶんこの石だろうというものが供養橋付近に残っていました。
「春採湖」は詳細な聞き取りを行って書かれていますが、この石も第十七番として「巡拝」されていたと記述されています。
10 春採湖周辺、友愛の並木道、市立病院下
第十五・十七番の先の 車止めのところから友愛の並木道に入ってすぐのところに第二十八番ともう1体が並んでい祀られています。
この第二十八番は「春採湖」では、供養橋付近にあり当時は「台座がないので札所と施主が不明であり、又石仏は舟形光背が壊れていたが、種々調査の結果第二十八番と判明したもの」とされています。
現在は、台座が修復され、供養橋付近から春採湖畔に移設されてたということになります。「碑文手帳」にも台座の文字が紹介されており、また、移設後の春採湖の位置で記載されています。
第二十八番のとなりには、光背に火炎が施され、裏側に大正13年の銘が入った石仏がおかれています。観世音には見えないのですが、三十三所建立当時のものということになります。(この石仏に写真は、このブログの最初のページに掲載してあります。)
第二十八番から少し行くと、同じく友愛の並木道に第二十九番があります。
第二十九番について「春採湖」では「昭和47年山かけの時には石仏が1体祭られていたという。」しかし「今回の調査には見当たらなかった。」とされています。破損が激しく台座も無いものであったとされています。「碑文手帳」では台座、位置等も第二十八番と同様に紹介されています。
この第二十九番の隣には、台座が土に埋もれてしまっているが、石仏の古さに比べると比較的新しい第二十九番同様の花立ての台座が置かれた座像の千手観世音(?)が祀られている。
この項の最初の写真の3枚目の石仏が、友愛の並木道から湖水沿いにネーチャーセンターへ向うと、市立病院から下りてくる舗装道路の下法面下にある第九番です。春先には、この石仏のすぐ横に福寿草が咲くのをご存知の方もいるでしょう。この第九番は、春先からずうっと花に囲まれているようです。
11 春採湖周辺、チャランケチャシ
チャランケチャシには、5体の観世音が祀られています。 向って右側から掲載していきます。
第十一番は「准胝観世音」とあり、ご詠歌には醍醐寺の文字は無く、醍醐寺という札所名に「深雪山 上醍醐寺 (准胝堂)」を使って紹介している例もあり、この「准胝堂」がご詠歌のなかに使われております。
「春採湖」によると、チャランケチャシを調査した昭和48年6月10日には、5体のうち、「1体は4,5メートル離れた草の中に転がされており、2体は倒されていた。そしてこの石仏と台座は、一部が打ち割られ無惨な状態であった。」とされています。掲載されている写真はきちんと建っているので、筆者が起こしたのでしょうか。
「春採湖」によると、山かけの折、チャランケチャシにはちょうどお昼頃につくようで、ここで、「釧路郷土史考」に記載されている「接待等を捧ぐるもの亦多数ありて」の文言と、また「春採湖」の記述の「ここで信者の方から熱いお茶か飲み物などの接待を受けて昼食を取り、次の霊場に向う」ということであったようです。(接待はここだけとは限らないでしょうが・・・)
この「次の霊場」が仏心禅寺になります。