釧路 野地の石仏

大正時代に建立された「釧路 新西国三十三所観音霊場」をご存知ですか?

当時(大正15年)の山かけの様子(新聞)

当時の山かけの様子(新聞)

大正一五年五月一九日付け釧路新聞を紹介します。

 山かけの様子は、本文の中でも「春採湖」から引用させてもらいましたが、大正十五年五月十九日の釧路新聞を釧路中央図書館で見ることができたので、全文を掲載させていただきます。

 大正13年の記事は残念ながらありませんでした。この十五年のものが入手可能な最古のものと思います。

 それにしても、600人であの春採湖や紫雲台墓地の小道を移動し、お参りし、御詠歌を歌い・・・、想像を超えています。

 なお、観音霊場開山式とありますが、これは第三回となっています。大正十三年建立で当時は年一回の山かけであったと思われます。

 文中に出てくる和讃とは「仏様やその教えを伝え導いた師を讃美する詩句であり、また、広く民衆に教えを伝えるため」に作られたもので、これが五七調に謡われ、御詠歌につながったとされているようです。YouTubeでも紹介されています。

新西国三十三ケ所

音霊場開山式

法悦に酔う六百の男女
僅か八時間で一巡する

 

  西国三十三番を模した観音霊場が西端寺の発起で釧路で建立されて釧路審査西国三十三ケ所観音と称えられてから、第3回に當る開山式が昨日午前八時から

 挙行されたが、折からの小雨で多少気勢をそがれた嫌いはあっても遠く音別方面からまづ馳せ参じた信者を加えて六百余名に達する盛会さであった。正八時に西端寺大多賀師の読経で式の幕が切って落とされ続いて寺内の一番観世音の霊場を振り出しに各寺々の前庭に或いは春採湖を挟んで高台・安置された霊場を1ヶ所づつ御詠歌や道中

 和讃を唱え乍ら巡り始めた。参詣者の大部分が既に五十路を過ぎた人々であるだけに或いはかつて失ったつれ合いや子供の事でも思い起こすのであろう、御詠歌が一節終わる毎に人々の目には玉の露が宿っている。総てが法悦に感激して居る連中ばかりなので至って静かなもの、殊に遠く中学校の裏を過ぎて

 春採湖を眼の下に見る所に出ると今迄降りつづいていた雨もはたと止んで、雲の間からあわい日の光さえ洩れて来る。一同の信仰のまととなって居る大多賀師の黒い衣の袖が湖面をふいて来るつめたい風にひらひらとなびいて居るのもあたりが景勝の春採湖であるだけにまったく名人の佛?を見るような感じを與える。うっとりとして御詠歌を唱えていると獨りでに何となく涙がにぢみ出て来る。所々に

 供養の為に接待所が設けられて六百余名に対してお菓子やあめを振舞って居る。やがて休憩所と定められた加賀谷公園では婆さん連中昔を思い出して思いきり声を張り上げて安木節や秋田音頭をうなり出す。山かけを當込みにして来た餅屋さんもついつり込まれてしまい、餅をおっぽり出しておどり出すと言う始末。之も一つの

 法悦であろう。全部の霊場に詣で、西端寺に引揚げたのは午後四時、庭内を一巡し終って納の御詠歌で一同の散会したのは同三十分であったが??ならば家を一歩も踏め出さない連中まで三里に餘る山や谷の遠路をして何のつかれた色もないとは全く信仰の力であろう。